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台湾の歴史

現在では世界でもっとも自由な国のひとつとして、経済的にも文化的にも発展し続けている台湾。しかし、過去には絶え間ない侵略と抗争の歴史がありました。そこには日本も密接に関わっています。また台湾には、東南アジアから最初に台湾へ移り住んだ先住民たちや何世紀にも渡って中国大陸からやってきた多くの移民たちの歴史がありました。歴史を知ることによって台湾旅行の意義や味わいがもっと深まるのではないでしょうか。

最初の人々は南からやってきた、そして中国大陸からもやってきた 〜16世紀

台湾に関する記述が歴史文献に最初に登場するのは3世紀ごろのこと。そのころは、南方の東南アジア方面から海を渡って移動してきた人々が住んでいました。こうした人々は現在では先住民族と呼ばれ、人口のわずか2%ですが、約10の部族がそれぞれの文化を継承し生活しています。6世紀(中国では隋の時代)になると、中国大陸南部から漢人が移り住むようになりました。13世紀の元の時代になると台湾は中国に属し、16世紀末には中国本土の人々が集団で移住するようになりました。中国大陸から移住した人々は福建省の出身者が多く、この地方のことばが現在の台湾語になっています。

大航海時代、ヨーロッパ列強の争いに巻き込まれた麗しの島 16世紀〜17世紀半ば

ヨーロッパに台湾の存在が知れ渡ったのは16世紀の大航海時代。台湾を発見したポルトガル人がその美しさに思わず叫んだということば「イラ・フォルモサ(麗しの島)」は自然に恵まれた台湾を表現する代名詞となっています。17世紀初頭には南部台湾をオランダ、北部台湾をスペインが占領しました。両国の15年間に渡る対立の末、1642年にオランダがスペインを破り、その後19年間台湾全土を支配しました。オランダ統治時代に首都の置かれていた台南には、オランダ植民地時代の遺跡が数多く残されています。

漢民族の英雄による奪還もつかのま、敵対王朝の支配下へ 17世紀半ば〜18世紀

オランダ統治時代、中国大陸では漢民族の明王朝に代わって、満州族の清王朝が政権を握っていました。明の遺臣であった鄭成功は、台湾を明王朝復活の拠点とすべく、1661年に2万5000人の兵を率い台湾南部に上陸、金門島を根拠地としてオランダ軍との戦いに勝利を収めました。以降23年間は鄭氏三代による台湾統治が行われましたが、清の台湾征伐軍に破れ、1684年に台湾は清の領地として福建省の一部となりました。18世紀の後半には政府の政策により中国大陸から台湾への移民が一段と増え、開墾や港湾建設など台湾の開発が進みました。

列強の接近、日本による植民地化と太平洋戦争 19世紀〜1945年

19世紀に入ると台湾は再びヨーロッパ列強に脅かされるようになりました。日本も1874年に台湾出兵を行っています。このころから台湾統治の中心は台南から台北へ移り始め、台湾最初の鉄道(基隆〜新竹)も開通しました。1894年に日清戦争が勃発、その結果、1895年の下関条約によって台湾島と澎湖列島が日本に割譲され、日本による台湾の植民地支配が始まりました。日本政府は台北に台湾総督府を置き、日本語での学校教育、日本の生活文化を強制しました。同時に台湾のインフラ整備、衛生事業、治安維持、農業や経済の発展などに力を注ぎました。欧米への対抗意識からこのような開発が行なわれたわけですが、台湾近代社会の発展に繋がったという側面もあるといわれています。当初、日本統治に対する台湾住民からの抵抗は激しく、紛争によって1万人以上の台湾の人々が亡くなりました。植民地支配は51年間にも渡り、太平洋戦争では台湾の人々も日本軍として戦地へ送られ、台湾へも空襲が及ぶなど、多くの犠牲者を生みました。1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して連合軍に無条件降伏し、台湾は同年10月25日に中国(中華民国)へ返還されました。

戦後の経済発展と国内での対立感情 1945年〜1970年

中華民国は1911年に中国大陸で成立しました。台湾でもこの1911年を元年とする中華民国暦を現在も使用しています。太平洋戦争終結後、日本の撤退とともに中華民国の国民党政府が台湾に進駐しました。戦後の荒廃の中、本土から政府が来たことを台湾の人々は当初歓迎しましたが、戦前から台湾に住む人々(本省人)と、戦後移住してきた人々(外省人)との差別問題が深刻化し1947年には2・28事件が勃発しました。国民党政府に対する反乱として多くの台湾人が虐殺されたこの事件は、本省人と外省人の対立を決定的にしました。本土では蒋介石率いる国民党政府と、それに抵抗する中国共産党とのあいだで内戦が続いていましたが、1949年12月、戦いに破れた国民党は軍民200万人とともに台湾に逃れ、台北を首都とし、総統・蒋介石による一党独裁政権を成立させました。同年5月には台湾全土に戒厳令が敷かれており、日本語が禁止され、学校では北京語による教育が義務付けられました。一方、国連安保理創始国のひとつとして経済発展、国際化を推し進め、国民の生活水準は向上していきました。1950年に朝鮮戦争が勃発し、東アジア全域の共産化を恐れたアメリカが台湾海峡の中立化を宣言。以降、アメリカとの関係を密にした台湾は1960年代半ばまで多額の軍事・経済援助を受け、経済はより発展していきました。

国連からの脱退、その後も維持された国際交流 1971年〜

中国大陸では国民党政府と中国共産党の内戦の結果、中国共産党による中華人民共和国が樹立され、国民党が拠点とする台湾(中華民国)と中国本土との関係は断絶されました。当初、蒋介石による中華民国は国連安保理の常任理事国でしたが、1971年、中国を代表する国家は中華人民共和国であると国際的に承認することが決定されました。そのため、中華民国は国連を脱退、中華人民共和国がその地位に就きました。中華民国、中華人民共和国ともに中国大陸と台湾はひとつの国家であると主張したため、台湾は中国の中の一地域に位置づけられました。1972年に日本が、1979年にアメリカが台湾との断交を宣言しました。国連脱退後、多くの国が台湾と断交し、国交においては国際的に孤立した反面、各国は経済的、人的に台湾との交流を維持、発展させてきました。しかし、事実上独立国家として機能している台湾と中華人民共和国との摩擦は現在も続いています。

スピード上げて民主化へ! 1988年〜現在

1975年に蒋介石が死去、息子・蒋経国が総統となり、そのころから徐々に民主化への動きが見え始めました。1987年には戒厳令が解除され、本格的に民主化が開始されました。1988年に蒋経国が死去、当時副総統であった本省人の李登輝が総統に就任しました。中華民国の歴史上初めて、本省人が総統に就任したことは台湾の人々にとって非常に画期的な出来事でした。新聞報道の自由化、野党結成の公認、憲法改正、立法議員選挙、総統の直接選挙などを次々に実施することにより、李政権は民主化を加速させました。同時に、1990年代にはハイテク産業を中心に世界経済を牽引するほどの経済的飛躍を遂げました。2004年の総統選挙では民進党の陳水偏が選ばれ、現在の政権を担当しています。

 

 

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